人間関係

どれだけ完璧な人でも嫌われる理由

爽風

人間関係がうまくいかない時、「自分のどこがいけなかったのだろう?」と考えることはありませんか。

皆さんもご存知の通り、どれだけ素敵な著名人にでもアンチが存在しますよね。

あなたがどれだけ完璧に振る舞うよう努力していたとしても、
あなたを嫌う人がいるのはなぜでしょうか?

嫌なことをする人は困っている人

以前、初めての人たちが集まるお茶会に参加する機会がありました。
隣に座った人が、めちゃくちゃつっけんどん!荷物置き場を一緒に使えるよう
「こちらよかったらどうぞ」とスペースを開けて声をかけたのに無視。
みんなで自己紹介をしたり話していて、私のことは聞いてくるのに、
こちらからも聞いたら適当にあしらう!
カフェなのに突然、つまらなそうにため息をついて寝出す!
なに?これは何?何が起こっているの?ここはどこ?え?え?と思っていたら……

その会のホストの方が見兼ねて、
「こちらの方は今、介護で鬱状態になってしまって大変なんですよ」と教えてくれました。

それを聞いたら、全くその方に対する嫌な気持ちが消えてしまいました。

なぜなら私が蔑まれるような価値のない人だからそれが起きたのではなく、
相手が単に困っていた人だからそんな振る舞いをしてしまったと聞いたからです。

相手が完璧な人ではなく、困っている人であれば仕方ありません。

悟りを開いた覚者でもあるバイロン・ケイティのザ・ワークというワークがありますが、
そこには「自分の心がざわつくとしたらそれは自分の見方のせい」だと書いてあります。
それをつくづく感じた体験でした。

人間というパーソナリティー(自我)はみんな不完全

相手は健康で日常生活も普通にうまくいっていて、自分に対する自信もあり、
自分の価値も認められている人間だ、となぜか私たちは相手が完璧に振る舞える人間なのだと、どこか「期待」していないでしょうか。
ちゃんと行動できるはず、ちゃんと人に優しくできるはず、ちゃんと迷惑かけないように配慮できるはず、嘘はつかないはず、私を理解できるはず、怒らないはず……

親なんだから、先生なんだから、上司なんだから、ヒーラーなんだから、パートナーなんだから、子供なんだから、長男なんだから、〜という資格を持っているのだから、〜という経歴があるのだから……
相手はそれに相応しい行動を取れるはずだと。

けれど一見、外から見てわからない健康に見えるような人もいろいろなものを抱えていて、
(今だけのことではなく、昔からの傷やら後悔やらトラウマやら、不安や悩みやら)
その時々の体調や気分があって、環境があって、社会があって、
毎回、完璧に振る舞うなんてそもそも無理だということです。

しかも、「この世界」自体がかなり生きづらい世界です。普通の意識で生きていれば、
命にも、物にも限りがあると信じ、競争し、戦って、自分を守って、何とか自分の力で
やりくりして生きなければいけないと信じ必死で生きている人がほとんどなのです。

小さな頃に虐待を受けた人もいれば、それがなくても小さい頃から比較されたり、
色々な場面でトラウマを抱えて生きてきた人もいると思います。
心の傷は、それこそ目には見えないですから他の人からは健康な人に見えます。

また、お金をたくさん持っている人は割と恵まれていると思われがちですが、お金を稼ぐためにかなりのストレスがかかっているとしたら家族生活や身体、精神はボロボロかもしれません。
マズローの五段階欲求のごとく、物が十分に手に入れば今度は承認欲求や権力欲求なども出てくるでしょう。欲望にかられて生きていれば心はいつも穏やかではありません。

「スピリチュアルな人」と呼ばれる人たちですら例外ではありません。
ヒマラヤの山奥を訪れたところ、修行僧たちが一つの瞑想用のクッションを争って、
大声を上げていたという話を聞いた事があります。
目覚め体験をした人も、怒ります。明らかにイラッとしている瞬間や仕草を見たこともあります。

私たちには2つの自己があり、本当の自己(存在としての自己)とパーソナリティー(自我、エゴ)としての自己があります。
普段、私は〜と名前をいう時、歴史を持つ自分、その自分はパーソナリティーの方の自己です。そのパーソナリティーの自己は「不完全」にできています。
なので、どこでどう転ぼうと、どんな権威であろうと、偉い人であろうと、親でも先生でも、
パーソナリティーは「不完全」です。

パーソナリティーは完全になれない

私たちによくありがちな罠は、パーソナリティーの自己を良い人物、社会や他人にとって都合の良いものにしようとすることです。
私も初めて聞いた時に驚いたのですが、「人を喜ばせようとすることは自我(エゴ)の罠」なのです。
パーソナリティーとしての自分を磨き上げて人格者になろうとか、人を愛そうとか、望ましい行動を取ろうと試みることでかえって他の人と痛みを伴う関係を築いてしまいます。
良い人になろうとする時、もっと人を愛そうと思っている時、喜ばせようと思っている時、それは自我の足りない想いや罪悪感から生まれているのです。
そして、「動機=結果」なので、愛が足りないという結果がそこに生まれるのです。

嫌な人にイラつくのは頑張りすぎだから

他の人にイライラしやすい人、他の人の行動に傷つきやすい人は、
自分にとても厳しい人なのかもしれません。

自分は辛い時でも笑顔で過ごさなければと思って無理しているのなら、
何かある度にくよくよして態度に出している人にイライラすると思います。

店員の態度にイライラしやすい人は、いつも人に優しく接して
他の人を不快にさせないよう頑張っているからかもしれません。

いつも自分に頼ってくる人に対してイライラするのは、自分は人に甘えてはいけないと
できるだけ人に迷惑かけないように頑張っているからかもしれません。

子供っぽく振る舞う人に対してイライラするのは、
自分はいつもちゃんとしていなければいけないと自分を律しているからかもしれません。

これは、私がたくさんの方々と接した経験からですが、
良い人や理想的な人間になろうと頑張っている人や人の目が気になる人ほど
鬱などになりやすい
ように感じます。
自分を無理にコントロールして小さな自己(自我が考える理想像)に押し込めようとして
自由な精神の本当の自分が出てこられないのです。

しかも、理想的な自分として振る舞おうとするほど、自分が抑圧している
なりたくない自分の特性を表す人間が目の前に現れてきます。
これを心理学用語でシャドーと呼びます。
理想的な人間になろうとすることで、抑圧したネガティブなパーソナリティーが
外側の世界に投影されてしまう
のです。
自分が我慢していることを堂々とやる人が登場し、自分を不快にし、
自分の足を引っ張るという悪循環の世界になってしまうのですね。

理想的な人になることを諦める

嫌な人に遭遇する確率を限りなく減らすためには……
自分をコントロールして理想的な人になることを諦める必要があります。

自分に不完全であることをゆるす。間違えることを許すということです。
自分のパーソナリティーの限界を受け入れるということです。

(そのことを自分を愛するという表現をする人もいるかもしれません)

つまり目の前に現れる、嫌な(自分にとって誤った)振る舞いをする人たちをゆるし、
相手のパーソナリティーの限界を受け入れるということです。

これはどういうことかというと、
自他一体というマインドの働きからいうと自動的に、

他の人に禁止すること=自分に禁止すること

になるので、他人を厳しくジャッジしている限り、自分を狭い牢獄に閉じ込めて
不自由にして生きていることと同じになってしまっているということなのです。
他人に厳しく自分に甘い人が世の中にはいるように見えても、その人のマインドの中では他人をジャッジしていることで自分自身をジャッジし自らにダメージを与えているのです。

そして、逆にマインドのメカニズムから言って、

他の人を自由にすること=自分を自由にすること

になります。

スピリチュアルな人≠聖人君主

あの、イエス・キリストですら、暴れて祭事をめちゃくちゃにしたと聖書の中で読んだことがあります。ブッダも家族を捨てて旅に出ました。このことで家族は苦しみ悲しんだと読みました。

スピリチュアルな人、つまり求道者は怒ることもなく、清貧の誓いをしていて、お金を欲しがらず、謙虚で我慢強く、無条件の愛を持ち、人に親切で素晴らしい人。
だから自分もそうならなければ……と。
そう思ってもできない自分を責めたり、不適切な行動をしたヒーラーや、人間味あふれる行動をとってしまうインフルエンサーをジャッジしてみたり……そんな人も少なくないかもしれません。

けれど、「愛あふれる聖人君主のイメージ」というのは、
人を扱いやすい従順な人間にして管理しやすくするために
宗教指導者が信者に与えたイメージにすぎません。

奇跡講座の教師、ケネス・ワプニック氏によれば、

親切さ、信頼、寛容、柔和、寛大、忍耐、無防備さ、開かれた心、など望ましい性質(奇跡講座では神の教師の性質と呼んでいます)というのは、そのように振る舞わなければならないというコントロールや自制から起きているのではなく、自分に対する罪悪感が溶解していくうちに自然に起きてくる性質

と説明されています。

これはインド哲学でも説明されていて、

自分の内側に愛がないのにも関わらず、
無理に愛のあるような行動をとることはストレスになるため行う必要がない。


と言われています。

理想的な自分は既に存在している

私たちは、肉眼で見える物を理想的なもの、つまり「欠けのないもの」にしようと
躍起になって生きてきたかもしれません。
他の人にも、完璧な理想を求め続けてきたかもしれません。

しかし、肉眼で見るものの中に自分の都合にとって完璧なものはありません。
それがこの二元的な世界(プラスとマイナスでできている目に見える世界)の限界なのです。

理想的な自分や他者というのは心の目で見る時にしか、
そして、そう見ようと決断し選択した時にしか見ることはできません。
振る舞いにおいて、全ての人にとって都合よく完全完璧になるのは不可能なのです。

誰もが自分の都合の良いように、自分の過去を通して相手を見ているからです。

そして、これはブッダの言葉ですが、

「どんなに完璧な振る舞いをしても自分のことを批判する人はいなくならない」

のです。

私たちが、理想的な自我を目指している間も、もう既に「存在」として
完全な自分が内側に同時に存在しています。

そして、「存在」の完璧性に焦点を当てている時に自然と適切な行動を取れるような
自分や他の人になります。


自分や相手の自我を物理的にコントロールすることで、適切な行動ができるようになって
理想的な人間になるのではなかったのです。

相手や自分の振る舞いを自分の自我を使ってコントロールしようとするのではなく、
心の目で見る力を使って、本当の自分と相手の存在の完璧さだけに焦点を当てることで、
最高の自己を表現し、本当の最善の姿を見ることができるようになるのです。

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