人間関係

人を許せない時、愛せない時はそれでかまわない

爽風

人を許せない時、人を受け入れられない時、人を愛せない時、人に与えようと思えない時。そんな時は無理をせずに、自分を愛することからゆっくりはじめていきませんか?

与えようと思えない、許そうと思えない時は

与えることが素晴らしいこと、許すことが素晴らしいこと、愛することは素晴らしいこと、
そんな風に聞いて生きてきた人がほとんどだと思います。

今人気のスピリチュアルな本にも、与えなさい、許しなさい、愛しなさいと書いてあると思います。

けれど、どうしてもそれが難しく感じるという方も少なくないと思います。

与える前に所有する

以下のお話は、スティーヴン・コヴィー博士の「原則中心リーダーシップ」からの抜粋です。

私はかつて自分の娘に分かち合うという価値観を教えようとしたことがある。
ある日、私が家に帰ると、3歳になる娘の誕生日パーティーが始まっていた。
彼女はもらったプレゼントを抱え込み他の子供達にそれを貸すまいとしていた。

それをみていた私は娘のわがままぶりをみている他の子供達の親の視線が恥ずかしくなり、私は自分に「娘に分かち合うことを教えるべきだ、分かち合うことは社会の基本なのだから」と言い聞かせた。

そこで、私はまず頼んでみることにした。

「おもちゃを貸してあげてくれないかな」

「いや」

キッパリと断られた。

次に理屈に訴えることにした。

「君がおもちゃを貸してあげれば、今度よその家に行った時に、おもちゃを貸してもらえるよ」

「いや」

また断られた。

私は娘に言うことを聞かせられないでいる自分がだんだん恥ずかしくなってきた。

今度は買収にかかった。

「おもちゃを貸してあげたら、いいものをあげよう。ガムがあるぞ」

「ガムなんていらない!!!」

と娘は叫んだ。

とうとう腹が立ってきた。次に脅迫した。

「貸してあげないならお仕置きだぞ」

「いいもん。これ、あたしのだもん誰にも貸してあげないもん」

最後に私は実力行使に出た。娘のおもちゃを取り上げ他の子供に渡した。

「さあこれで遊びなさい」

・・・・・・・・・・・・

娘には人に貸し与える前に所有すると言う経験が必要だったのだと思う。

そもそも所有していないものを、どうやって人に貸し与えることができるのだろうか。

この時の私は娘の成長や娘との関係よりも周りの親たちの目を気にしてしまった。

短絡的に「私は正しい。娘はおもちゃを貸すべきだ。娘の方が間違っている」

と判断した。

そして彼女が従うまで強要し続けたのである。

後でわかったのは、

子供は所有する感覚をきちんと経験すれば、

ごく自然に、自由に、自発的に、分かち合うようになる

と言うことだった。

私はこのお話を読んだ時、当てはまるのは子供だけではなく、大人も一緒だと感じました。

奇跡のコースにも「私たちは持っていると思っているものしか与えられない」とあります。

そして、子供に当てはまるのが自分だとして、大人の部分にも自分が当てはまるのではないかと言うことです。

そうあるべきだ、そうするべきだ、それが当たり前だ。
与えるべきだ、愛するべきだ、許すべきだ…

そんなふうに自分に強制して、準備が整っていないのに自分に強制してしまうのです。
(もしよかったらコヴィー博士の部分を自分の頭の声に置き換えて読むとわかりやすいです。)

与えることが良いことも、許すことが良いことも、人を愛することが良いこともそんなことは、誰もが心の底ではきっとわかっているんですよね。

でも、できない。

だったらその時はそれで良いということです。

自発的に起こるはずのことが起こっていないのだから……

じゃあそのままでいいの?と言ったら、コヴィー博士が書いていたように、

「所有する感覚をきちんと経験すれば」

自然とそれが起きると言うことなんですね。

つまり、どう言うことかというと、

やっぱり「自分が先に愛で満たされる」というところに行き着くのではないでしょうか。

これは本当に本当にそうなのですが、

自分に与えられていないものは、どれだけ頑張っても人に与えられないんです。
自分に厳しい人は、人にも厳しくなるし、
自分を愛せない人は、やっぱり他の人のことも愛せない。

自分の中の愛を求める声に応えていない人、自分のニーズを自分で満たしていない人は
人の愛を求める声に応えないし、他の人のニーズも退けてしまいます。
ここは見事なまでに連動しています。

私も本当にここは謙虚にならなければならないなと思いました。
許すことは確かにものすごく役に立つし、
物事を投影の視点から見ると時と場合によっては役に立ちます。

それでも、その時々、不安でいっぱいの人は否定されずに
その不安を自由に表現する場が必要ですし、
怒りでいっぱいの人は、その怒りを表現する場が必要なんですね。

その感情を自分で感じて、見て、表現してそれを自分に許して、そうしていくと、自分の中に余裕が出てきて、自らの力で(だって誰もが神ですから)そこから本来進むべき方向へと進んでいくことができるんです。

生きづらさを感じてきた方は、このスペースがなかった方ではないかと私は考えます。
本来、愛として生まれてきた私たちは愛で満たされている感覚、愛されている感覚があれば
自然と分かち合い、人を愛し、人を許すことができて自然に幸福だったはずだったのです。
けれどそれがいろんな事情で与えられていなかったのかもしれません。

正しさだけでは進めなくて、

本当にそこには愛の力が、自らを愛する力が必要なんですね。自分を少しずつ愛して、受け入れて、自分を許して、そうしていけば自然と他の人に与えることもできるし、受け入れることもできる。他の人を許す、理解する余裕もできる。

人を愛しなさい、人を許しなさい。

それはもちろんですが、順番があったんですね。

まず自分が満たされなさい、自分を愛しなさい、自分を許しなさい。

それが先なんです。

与えられなくても、愛せなくても、許せなくてもいい。

そんな時は無理にしなくてよかったんです。

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